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CMO株式会社(https://jp.cmo.team)代表、遠藤結万(えんどうゆうま)のブログ。

月下の棋士と藤井聡太六段

月下の棋士 全32巻完結(ビッグコミックス) [マーケットプレイス コミックセット]

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月下の棋士という将棋漫画をご存知でしょうか? 月下の棋士は森田剛主演でドラマ化もされた人気の将棋漫画で、3月のライオンが出るまでは最も人気の将棋漫画でした。月下の棋士を一言で説明すると、「無茶苦茶な漫画」です。突っ込みどころは非常に多くあります。キャラクターを使い捨て過ぎたりとか。

しかし、月下の棋士の七巻はあらゆる将棋漫画、いや勝負事を書いた漫画の中でも最も優れたものです。この七巻だけでも買って欲しい。この七巻は、刈田升三というキャラクターがフィーチャーされています。この刈田升三、見ていただければ分かると思いますが、ほとんど升田幸三そのまんまです。ということで、別に月下の棋士のあらすじを一ミリも知らなくても「升田幸三の漫画」として読むことが出来ます。

逆に、この刈田と大原巌(大山康晴+中原誠)を失ったあと、月下の棋士は急激に物語としての魅力を失い、迷走していきます。

天才、升田幸三

升田幸三という人は、「新手一生」「将棋の寿命を1000年縮めた男」と言われた、非常に革新的な棋士でした。升田式石田流の発明や、居飛車穴熊の棋譜などを見ると、間違いなく現代将棋に最も近いセンスを持った棋士だったといえるでしょう。 七巻でとりあげられる将棋は、将棋ファンなら誰もが知っている「升田の△3五銀」(大山康晴との名人戦、いわゆる石田流シリーズ)がモチーフになっています。これは大名局の中の大名局で、将棋の歴史の中でも大山の△8一玉や中原の▲5七銀、羽生の▲5二銀といった手と並んで、衝撃的な手と言えるでしょう。

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ここで△3五銀が絶妙。以下▲同角に△3四金▲同金△3五角と進めば飛角がさばける。
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七巻において、虚構と現実はクロスしています。刈田の姿を借りて、「作者が考える升田幸三」の将棋が展開されます。 この構造はあの漫画に似ています。そう、刃牙とマウント斗羽、アントニオ猪狩の戦いです。マウント斗羽とアントニオ猪狩は、虚構の存在でありながら、作者の考えた馬場・猪木を投影しています。

さて、この七巻のテーマは何か。それは、「歴史を背負った棋士」と「天才」の戦いです。

月下の棋士七巻の魅力

七巻では、刈田升三が主人公である氷室将介と対戦します。刈田は名人を獲得した将棋の棋譜をなぞり、名人を失陥した時に辞めたはずのピースをくゆらせながら、全盛期の力を取り戻したような将棋を見せます。

名人を失陥したときに辞めたはずのピースをくゆらせる。かっこいい(升田幸三も愛煙家として知られていました)。見開きです。作者の気合の入り方が違います。

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氷室は、一言で言えば天才です。この月下の棋士において、氷室の成長はほとんど見えません。最初に登場した時から氷室は最強クラスの実力を持っているわけですから。 修行もせず、時々おじいちゃんと指していただけで、いきなり奨励会で全勝してあっさり勝ってしまう。フィクションとしてもかなり奇想天外な人物です。

その意味で月下の棋士とは、「ゴトーを待ちながら」や「桐島、部活やめるってよ」などと同じく、氷室という一人の狂言回しを通して様々な棋士の思いや物語を書く作品だったと言えるでしょう。氷室将介の素性や生まれ育ちは殆ど語られません。しかし、刈田や大原といった対戦相手の思いや歴史は、極めて長々と語られます。 作者は「羽生フィーバー」を見て氷室将介というキャラクターを思いついたと語っています。内弟子などの厳しい修行をせず、いきなり現れ棋界を席巻した羽生世代(羽生善治二冠、森内俊之九段、佐藤康光九段など)は、当時の将棋界にとって異質な存在だったのかもしれません。

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「きさまなんぞに、わしらの歴史が分かってたまるかよ!!」 「あいにくだな、そんなもん知りたくねえよ!!」

氷室というキャラクターは、ある時点まで将棋を指す理由を持ちません。ただひたすら、強く、将棋を楽しんでいるだけです。つまり、ドラゴンボールでいうと悟空です。多くのものを背負っているのはむしろライバルキャラである佐伯や、立ちはだかる壁である大原・刈田です。

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形勢が動いたのは、この局面です。刈田は、ここで▲5五金と指せば形勢が良いということを知っていました。しかし、それでも、ここで銀を取れないなら名人経験者として名折れになる。常に「魅せる」将棋を見せたかった刈田としては、ここで銀を取らない訳にはいかない。

馬鹿をしても勝つのが強い棋士ってもんよ 刈田はこう語り、銀を取ります。そして、その瞬間、最大のライバル大原巌が、常に自分の挑発に乗ってくれていたことに気づく。この演出が素晴らしい。

この将棋を見ると、作者の刈田への、いや升田幸三への愛が伝わります。刈田が敗れる理由が非常に自然で、そして刈田の強さというものを書いていながら、主人公を勝たせているからです。 月下の棋士に登場する他の棋士は、失神したり失禁したりなぜか一手詰めを逃したり、わざと負けたり、死んだりします。この七巻では、そういった理由ではなく、刈田の棋士としての誇り、意地が、着手を誤らせました。 棋士としての誇り、歴史と思いを背負って対局する刈田と、純粋に将棋を楽しんでいるだけの氷室。最後に、その差が勝負を分けたのです。

翌朝。残り五分になっても、刈田は便所で着手を探し続けます。(ポケット将棋盤を持ち歩いているというのが姑息でいいですよね) f:id:yumaio:20180717173657p:plain

残り三十秒、最後のピースをくゆらせながら、刈田は負けを認めます。敗北の美学というものがあるなら、これ以上に美しい負け方はないのではないでしょうか?

羽生善治と村山聖

将棋界において、才能というものは、ある意味残酷です。10代20代のうちに、ある程度順位付けが住んでしまう。天才は常に天才で有り続ける世界でもあります。これは、羽生善治二冠と、故・村山聖九段の関係に通ずるところがあります。羽生二冠は主人公です。しかし、おそらく羽生さんの人生が映画化されることは、無いのではないでしょうか。羽生さんはただ強いだけなのです。村山九段は、過剰なほど多くのストーリーを背負っています。ネフローゼと戦い、ガンと戦い、それでも名人という夢を諦めなかった村山九段。だからこそ、映画たりうる、物語足りうるのです。

NHK杯で次回、藤井聡太六段と今泉健司四段の対局が行われます。この二人は全く正反対といえます。史上最年少棋士と、史上最年長棋士。奨励会を退会しながら、夢を諦めきれずにプロを目指し続けた今泉四段と、才能だけで記録を塗り替え続ける藤井六段。この構図にも繋がるかもしれません。

羽生に村山将棋について聞いた。

「攻めが鋭くて、勝負カンが冴えている将棋。もし健康ならタイトルをいくつか取ったでしょう」と答えてくれた。「もし村山さんが健康でも、羽生さんは七冠を取れましたか」とちょっと意地悪な質問をすると、少し考えて「もし健康ならと同情されること自体彼は嫌だったでしょうね」とだけ言った。 shogipenclublog.com

 物語は敗者の、弱者のためのものなのです。勝つ人はただ勝ち続ける。だからこそ、スポットライトの当たらない側にこそ、物語が生まれるのではないでしょうか。  久しぶりの天才棋士の登場に沸く将棋界で、そんなことを感じさせる月下の棋士七巻を是非読んでみてください。